いにしえの記憶第2章(その19) [いにしえの記憶]
過ぎ去った日々に徐々に埋もれていく、遠い日のいにしえの記憶
写真は、昨日(5月14日)に与野公園に散歩に行った際、バラ園に咲いていた「カクテル」です。
テレワークで歩くことが減った対策として、休日に散歩に出掛ける公園の一つが与野公園です。与野公園が会場となる「ばらまつり2023」は5月20日・21日の開催ですが、この日、多くの人でバラ園は賑わっていました。そして、既に見頃を終えて散り始めた薔薇も多かったです。
「カクテル」から想い起こされる、きわめて個人的な、いにしえの記憶です。
ーーーーーーーーーー
1966年10月、私が小学校4年生の時、多摩地域に家を新築して、私の家族は小金井公園からさほど遠くはない所に品川区から引っ越してきました。引っ越した家の庭は、かなり広かったです。
私の父親は、薔薇が好きでした。品川区に住んでいた頃、私の父親はいつも、薔薇の図鑑(?)のようなものを眺めていました。そして、私を連れて「とどろきばらえん」に薔薇を鑑賞しに行くこともしばしばでした。
そんな父は、新居に引っ越したら “薔薇を栽培する” と口癖のように言っていました。
ーーーーーーーーーー
新居に引っ越して、父は庭の1/5程のスペースに、様々な種類の薔薇を植えました。品種名は解りませんが、黄、ピンク、赤、などなど様々な花を咲かせてくれました。
しかし、私の家族は皆、薔薇を好きではありませんでした。私の母親も兄も姉も、薔薇の花を “押しつけがましい”、“棘がある” と言って、嫌っていました。私も、薔薇の花は暑苦しい感じがして好きではありませんでした。
結局、庭の4/5のスペースには父親以外の家族の要望で、数種類の松、10種類ほどのつつじ、合歓、山椒、白樺、柘植、カイドウ、サルスベリ、ハクモクレンなどが植えられました。
ーーーーーーーーーー
家族にとっては憎まれ役の薔薇でしたが、唯一、家族に評判が良かったのが「カクテル」でした。塀のフェンスに這わせるように植えられた「カクテル」、この一重で可憐な薔薇は家族に好評でした。私も八重の薔薇が持っている暑苦しさを感じさせない、一重でさわやかで、色鮮やかな「カクテル」が好きでした。
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父親は薔薇の手入れを熱心にしていましたが、薔薇の栽培は難しいのか、時を重ねるごとに次々と庭から姿を消していきました。しかし、「カクテル」だけは私が大学生の頃まで、可憐な花を見せてくれていたと思います。
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「カクテル」を意識して見たのは、45年ぶりくらいかも知れません。父親は23年前に他界しています。
もしも、家族が薔薇に対して寛容であったのなら、父親は庭一面を薔薇で埋め尽くしたかったのかも知れません。
与野公園の「カクテル」を前にして、いにしえの日々に、父親が育てていた薔薇について思いを馳せた次第です。
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写真は、昨日(5月14日)に与野公園に散歩に行った際、バラ園に咲いていた「カクテル」です。
テレワークで歩くことが減った対策として、休日に散歩に出掛ける公園の一つが与野公園です。与野公園が会場となる「ばらまつり2023」は5月20日・21日の開催ですが、この日、多くの人でバラ園は賑わっていました。そして、既に見頃を終えて散り始めた薔薇も多かったです。
「カクテル」から想い起こされる、きわめて個人的な、いにしえの記憶です。
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1966年10月、私が小学校4年生の時、多摩地域に家を新築して、私の家族は小金井公園からさほど遠くはない所に品川区から引っ越してきました。引っ越した家の庭は、かなり広かったです。
私の父親は、薔薇が好きでした。品川区に住んでいた頃、私の父親はいつも、薔薇の図鑑(?)のようなものを眺めていました。そして、私を連れて「とどろきばらえん」に薔薇を鑑賞しに行くこともしばしばでした。
そんな父は、新居に引っ越したら “薔薇を栽培する” と口癖のように言っていました。
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新居に引っ越して、父は庭の1/5程のスペースに、様々な種類の薔薇を植えました。品種名は解りませんが、黄、ピンク、赤、などなど様々な花を咲かせてくれました。
しかし、私の家族は皆、薔薇を好きではありませんでした。私の母親も兄も姉も、薔薇の花を “押しつけがましい”、“棘がある” と言って、嫌っていました。私も、薔薇の花は暑苦しい感じがして好きではありませんでした。
結局、庭の4/5のスペースには父親以外の家族の要望で、数種類の松、10種類ほどのつつじ、合歓、山椒、白樺、柘植、カイドウ、サルスベリ、ハクモクレンなどが植えられました。
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家族にとっては憎まれ役の薔薇でしたが、唯一、家族に評判が良かったのが「カクテル」でした。塀のフェンスに這わせるように植えられた「カクテル」、この一重で可憐な薔薇は家族に好評でした。私も八重の薔薇が持っている暑苦しさを感じさせない、一重でさわやかで、色鮮やかな「カクテル」が好きでした。
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父親は薔薇の手入れを熱心にしていましたが、薔薇の栽培は難しいのか、時を重ねるごとに次々と庭から姿を消していきました。しかし、「カクテル」だけは私が大学生の頃まで、可憐な花を見せてくれていたと思います。
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「カクテル」を意識して見たのは、45年ぶりくらいかも知れません。父親は23年前に他界しています。
もしも、家族が薔薇に対して寛容であったのなら、父親は庭一面を薔薇で埋め尽くしたかったのかも知れません。
与野公園の「カクテル」を前にして、いにしえの日々に、父親が育てていた薔薇について思いを馳せた次第です。
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いにしえの記憶第2章(その18) [いにしえの記憶]
過ぎ去った日々に徐々に埋もれていく、遠い日のいにしえの記憶
高橋国光さんが3月16日に亡くなったとの悲しいニュースが流れました。
日本のモータースポーツ黎明期から活躍してきたレーサー(レーシングドライバー)高橋国光さんについて、私のいにしえの記憶を少し記してみます。
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先ず思い浮かぶのは、ニッサンワークスチームの一員としてR38シリーズをドライブした1960年代の日本グランプリの記憶です。
第4回日本グランプリ(1967)、決勝レース序盤、トップを走行する生沢徹の白いポルシェ906と2番手を走行する高橋国光の赤いニッサンR380のデッドヒート。高橋国光は生沢徹を追い詰め、生沢徹のポルシェ906はS字コーナーで堪えきれずスピンしてコースアウト、巻き込まれた高橋国光のニッサンR380もコースアウト。2車ともにエンジンストールしましたが、生沢徹のポルシェ906は素早く再始動してレース復帰、高橋国光のニッサンR380は再始動に手間取り周回遅れに。
優勝は生沢徹、高橋国光は同一周回に戻したものの2位に終わりました。
第5回日本グランプリ(1968)、高橋国光は左右分割式のエアロスタビライザーを備えた“怪鳥”ニッサンR381をドライブして、予選でポールポジションを獲得。決勝レース序盤、北野元のニッサンR381、田中健二郎のローラT70MkⅢとトップ争いを演じ、北野元のニッサンR381をかわしてトップに立ちましたが、駆動系(リアハブ)のトラブルで後退、リタイア。
優勝は北野元、タキ・レーシングチームからエントリーしたポルシェ910をドライブする生沢徹が2位に入りました。
第6回日本グランプリ(1969)、決勝レース序盤、川合稔のドライブするトヨタ7(5L)、ジョー・シフェールのドライブするポルシェ917と高橋国光のドライブするニッサンR382がトップを争い、一時、高橋国光はトップに立ったものの、エンジン(インジェクション)の不調でピットインして後退、結果10位に終わりました。
因みに、優勝は黒沢元治、2位は北野元のニッサンR382がワンツーフィニッシュ、3位は川合稔のトヨタ7でした。
日本グランプリ優勝のチャンスを3回逃し、この頃から高橋国光は、“無冠の帝王”と呼ばれるようになりました。
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次に思い浮かぶのは、1970年代、酒井レーシングからエントリーした富士グランチャンピオンシリーズ(グラチャン)での記憶です。
高橋国光のグラチャンデビューは1973年の第4戦富士インター200マイルレースでした。ミノルタカラーのマーチ735BMWをドライブして3位となりました。2ヒート制レースの第2ヒート終盤、3位を走るチームオーナーの酒井正に2位の座を譲ってランデブー走行でチェッカーを受けました。黄色いミノルタカラーのマーチ735BMWが連なって走行するシーンが今でも強烈に印象に残っています。
因みに、優勝はヒーローズレーシングからエントリーした、黒沢元治がドライブするマーチ735BMWでした。
高橋国光のグラチャン初優勝は、1974年の第2戦富士グラン300キロレースです。1974シーズンから由良卓也氏がデザインしたロングテールボディに換装したマーチ735BMWで、2ヒート制レースの第1ヒートを制しました。そして、運命の第2ヒート、ローリングスタート直後、黒沢元治の犯罪行為そのものと言える愚行が原因となった多重衝突事故により、風戸裕(シェブロンB26BMW)、鈴木誠一(ローラT292BDA)の両ドライバーが焼死、第2ヒートは中止されました。
第1ヒートの結果が、そのままレースの最終結果となり、優勝は高橋国光、2位が黒沢元治(マーチ745BMW)、3位が北野元(マーチ735BMW)となりました。
富士スピードウェイの名物だった30度バンクを使った最後のレースを制したのが高橋国光でした。
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・ニッサンワークス時代、伝説となったスカイライン2000GT-R(ハコスカ)での活躍
・1977年F1日本グランプリ、ティレル007での力走
・全日本スポーツプロトタイプカー選手権(JSPC)、アドバン・ポルシェ956/962Cでの圧倒的な強さ
・全日本ツーリングカー選手権(JTC)、アドバンカラーのスカイラインGT-R(R32)での活躍
・ルマン24時間レース、ポルシェ956/962C、ホンダNSXでの挑戦
高橋国光さんのレースでの活躍の記憶、書き始めるときりがありません。高橋国光さんは、数多くのレースで輝かしい活躍を見せてくれて、モータースポーツファンの心を捉えて離しませんでした。
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私がモータースポーツに興味を持った1960年代、寧ろ、今日よりも世間一般の人々のモータースポーツへの関心は高かったと思います。レーサーの名前も世間に浸透し、自動車雑誌以外でもレーサーの話題が誌面を賑わせていました。そして、毎週末のようにレースやジムカーナのテレビ番組が放送されていました。
私の小学校の卒業アルバム、卒業文集に将来なりたい職業にレーサー、将来の夢は日本グランプリ優勝と書くクラスメイトが何人も居ました。
高橋国光さんの訃報を耳にして、いにしえのモータースポーツシーンを懐かしむ自分が居ました。
今頃、天国で、高橋国光さんは師匠だった田中健二郎さんと昔話に花を咲かせているかもしれません・・・
高橋国光さんのご冥福を心よりお祈りします。
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いにしえの記憶第2章(その17) [いにしえの記憶]
過ぎ去った日々に徐々に埋もれていく、遠い日のいにしえの記憶
いにしえのブラウン管を彩った女優についての記憶。その第8弾です。
今回のいにしえの記憶は、比較的最近の記憶となります。女優さんよりは、寧ろ出演した作品の記憶となるかもしれません。
私は小学校入学の前後から、海外、特に米国のシリアスなTVドラマが観るのが好きでした。逆に日本の子供向けのアニメ番組、特撮もの番組などには、ほとんど興味はありませんでした。
そんなわけで、私の小学生時代に大きな話題となった円谷プロのウルトラシリーズでしたが、放映当時はあまり熱心に観ることはありませんでした。かろうじて、「ウルトラマン」を初回放映の途中から最終回まで見たくらいです。「ウルトラマン」に続く、円谷プロによる空想特撮シリーズの第四弾「ウルトラセブン」、名作ドラマの誉れが高いですが、何か、このドラマの世界観みたいなものに私は馴染めず、セブンは観ませんでした。
ちなみに、空想特撮シリーズの第一弾は「ウルトラQ」、第三弾は東映による「キャプテンウルトラ」でした。
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それから30年・・・・・
当時、幼稚園に通っていた息子は、「ウルトラマンティガ」が大好きで、幼稚園の先生から息子が、”大きくなったらティガになる!” と言っているという話を聞いたことがありました。
そんなわけで、家族三人で一緒に「ウルトラマンティガ」を観るようになりました。最初は息子に付き合って観ていたのですが、そのうちに私自身が「ウルトラマンティガ」の描く世界観にハマってしまい、熱中して観るようになりました。「ウルトラマンティガ」の世界観で描かれる、近未来の日本が直面する様々な問題、つぎつぎ怪獣が出現することが持っている必然性、古代文明を導いた光の巨人ティガが復活することの意味あいなど、物語の深さが、このドラマをとても魅力的なものとしています。私の今までの人生を通じて、最も素晴らしいと感じる ”日本のテレビドラマ” の1つと言っても過言ではないです。
GUTSのダイゴ隊員を爽やかに演じたV6の長野博さんが、光の巨人ティガのイメージによくマッチしていたと思います。また、ユーロビートのテーマ曲、V6の「TAKE ME HIGHER」もとてもカッコよく魅力的な曲で、何種類かあるオープニング映像によくマッチしていて、このドラマの魅力の1つとなっていました。
全52話のこのドラマ、どのエピソードも面白く、深いですが、とりわけ最終章(第50話~第52話)、ダイゴがティガであることに、GUTSのイルマ隊長(高樹澪)、レナ隊員が気づき、ティガが闇の支配者ガタノゾーアとの最後の戦いに立ち向かう物語の展開は圧巻、とても感動的です。
ティガに出演した女優さんで注目を集めたのは、「ウルトラマン」で科学特捜隊のハヤタ隊員を演じた黒部進さんの娘の吉本多香美さんがレナ隊員を演じたことだと思います。親子二代、ウルトラマンシリーズに出演を果たしました。
吉本多香美さんのアクティブでボーイッシュな役作りは、GUTSのパイロットのイメージにピッタリとハマっていて、とても魅力的でした。ダイゴ隊員を演じた長野博さんとレナを演じた吉本多香美さんフレッシュな印象が、このドラマをより一層、魅力的なものとしてくれました。
物語の終盤、闇の支配者ガタノゾーアとの戦いに敗れ、光を失い石像の姿に戻って海中に沈むティガに、アートデッセイのコックピットのレナが「ダイゴォォ~!」と叫び、他のGUTS隊員がダイゴがウルトラマンティガであることを知るシーン、私は思わず息を呑み、この物語がこれで終って欲しくないと願いました。
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「ウルトラマンティガ」、「ウルトラマンダイナ」、「ウルトラマンガイア」は平成ウルトラマン三部作と呼ばれています。
「ウルトラマンダイナ」は「ウルトラマンティガ」の世界観を引き継いでいて、全く違和感なく観ることができました。しかし、「ウルトラマンガイア」は「ウルトラマンティガ」、「ウルトラマンダイナ」の世界観を全く継承していないため、私には馴染めませんでした。息子も小学生になってからウルトラマンより他のことに興味を惹くようになり、家族三人でウルトラマンを観ることも平成ウルトラマン三部作で終わりになりました。
平成ウルトラマン三部作が放映されていた時代、レンタルビデオで初代「ウルトラマン」から「ウルトラマンパワード」までの作品のビデオを息子にせがまれて毎週借りて家族三人で観続けて、当時ビデオ化されていた全てのエピソードを観つくしてしまいました。
どの作品でも魅力的なヒロインが登場します。これらの作品のなかで、世の中的に最も人気があるヒロインは「ウルトラセブン」で菱見百合子さんが演じた、ウルトラ警備隊のアンヌ隊員だと思います。ウルトラ警備隊の紅一点の綺麗なお姉さんアンヌ隊員も魅力的ですが、毅然と任務を遂行しつつ、ダイゴに想いを寄せるレナは、私にとって最も魅力的なウルトラマンシリーズのヒロインです。
「ウルトラマンティガ」の物語のラスト、ダイゴがレナに手渡した石になったスパークレンスが、煙がたなびくように風に吹かれて消え去ってしまいます。そして、ダイゴに向き合ったレナの「もう、ウルトラマンにはなれないね」の言葉に「人間はみんな自分自身の力で光になれるんだ」と言葉を返すダイゴ、ダイゴを見つめて涙ぐむレナ、この素晴らしいテレビドラマを語るうえで外すことのできない、とても感動的なシーンです。観ていて泣けてきたことを思い出します。このシーンのレナはとても可愛く、チャーミングでした。今でも、このシーンは鮮明に記憶に残っています。
そして、「ウルトラマンダイナ」の最終章、ダイゴとレナは結婚して女の子が生まれて、火星で暮らしている姿が描かれています。「ウルトラマンダイナ」の最終章に「ウルトラマンティガ」の物語のもう一つのラストを観た気がしました。ダイナの物語はとても悲しい結末を迎えましたが、「ウルトラマンティガ」の素敵なカップルが結ばれて、とてもホッとしたことを憶えています。
吉本多香美さんが演じたレナ隊員、アクティブでキュート、とても素敵なヒロインとして、私の記憶に刻まれています。
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いにしえの記憶第2章(その16) [いにしえの記憶]
過ぎ去った日々に徐々に埋もれていく、遠い日のいにしえの記憶
いにしえに放映されたNHK大河ドラマの記憶、その第1弾です。
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私は物心ついた時からテレビドラマを観るのが好きでした。
家族の影響もあってか、私が子供の頃、幼稚園児や小学校低学年の生徒が決して観ないような、シリアスな外国テレビドラマが特に大好きでした。アニメや子供向けのテレビドラマは好きではなく、殆んど観た記憶がないです。
そんなわけで、子供の頃に観たテレビドラマの記憶は、ほとんどが外国テレビドラマ(大半は米国テレビドラマ)です。
私が子供の頃、外国テレビドラマ以外で観ていた数少ないドラマの1つがNHK大河ドラマです。家族が好きだったこともあり、日曜日の夜は家族揃ってNHK大河ドラマを観るのが当時の日常となっていて、まだ子供だった私も家族と一緒に観ていました。
私がNHK大河ドラマを観たのは、昭和39年放映「赤穂浪士」から昭和53年放映「黄金の日々」の間の15作品です。それ以降、大河ドラマを観なくなったのは、歳とともに遊び呆けて日曜の夜や土曜日の昼に家に居ることが稀になったこと、そして、NHK大河ドラマが持っていた格調が徐々に失われていったと感じられ、関心が薄れてしまったことです。
15作品のなかの大半の作品は私の記憶には残っていません。同時代に観た外国テレビドラマのシーンが今でも鮮やかに蘇ってくるのですが、1年間を通して観た大河ドラマでそのような作品が少ないのは意外でもあります。
しかし、鮮やかに記憶が蘇るNHK大河ドラマ作品がいくつかあります。記憶が蘇る作品に共通することは、主題曲を鮮明に憶えていることです。
但し、「花神」(昭和52年)のように主題曲を鮮明に憶えていても、ドラマの内容が全く思いだせないもの、「太閤記」(昭和40年)は逆に、本能寺の変の織田信長(高橋幸治さん)の自害のシーンなど鮮明に思いだせるのですが、主題曲の記憶が全くないものもあります。
NHK大河ドラマのなかで、最も主題曲が印象に残っているのは、昭和39年放映の「赤穂浪士」です。
芥川龍之介さんの三男である芥川也寸志さんが作曲の主題曲、文句なしの名曲です。この曲は、昭和30年に美空ひばりさんが主演した映画「たけくらべ」の主題曲の使い回しだったということが、今では知られています。
しかし、この主題曲を耳にすると、己を律して、主君の仇を討つという本懐を遂げるまでの、浪士たちの生き様が眼に浮かぶようです。パシッ、パシッと入るムチ(パーカッション)の音が、浪士たちが置かれた厳しすぎる現実と決意の固さを表現しているように思います。
この物語の主題曲として、この曲の他には考えられません、この曲があってこそのNHK大河ドラマ「赤穂浪士」だと思います。
当時、NHK大河ドラマの日曜日の夜の放送時間は今より遅く、小学二年生だった私は、日曜日の夜の本放送ではなく、土曜日のお昼の再放送を母と一緒に観るのが常でした。因みに、NHK大河ドラマが午後8時台の放送になったのは、翌、昭和40年放送の「太閤記」からです。
母親と土曜日の昼間の再放送を観たなかで、もっとも、鮮明に印象に残っているシーンは、名前を呼ばれて控えの間から切腹へと向かう白装束の大石内蔵助と控えの間に残る同志との別れのシーンです。このシーンを観て、涙もろかった母が大粒の涙をぼろぼろと流していたのが、今でも昨日のことのように思いだされます(母は日曜日の夜の本放送も観ていた筈ですが・・・)。おそらく、「赤穂浪士」最終回のシーンだと思います。
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残念ながら、NHKは当時高価だったビデオテープを使いまわしていたため、「赤穂浪士」はもう二度と見ることはできません(他の同時代のNHK大河ドラマも同様)。
しかし、唯一、第47話「討ち入り」の映像が残っていて、DVD化されているので購入して観てみました。
ビデオテープからフィルム化された映像なので、画質、音質は決して良くはないのですが、53年前に観た記憶が蘇り、懐かしさと感動で胸が詰まりました。。。
このDVDには、吉良邸討ち入りから、夜明けが目前になっても吉良上野介を見つけることのできない、大石内蔵助、浪士たちの焦りと困惑が、秀逸なカメラワークでBGM控え目にきわめて淡々と描かれています。今、このNHK大河ドラマ「赤穂浪士」をこの1話しか見ることができないのは、なんとも残念でなりません。。。
まだまだ日本のテレビ放送の黎明期だったとも言えるかもしれないこの時代、セット、殺陣、効果音など、今の水準から比べるととてもチープです。しかし、この作品の持つ格調の高さ、映像の深さには、今日のテレビドラマ作品は到底及ばないように思います。出演者も今日のテレビドラマでは信じられないような、超大物俳優、名優が名を連ねています。
白黒テレビのブラウン管の前に垂れ幕のような布が下がっていて、テレビの電源を入れていない時は、その布を降ろしてブラウン管を覆うのが当たり前だった時代。このようにテレビがまだまだ特別な存在だった時代だからこそ、渾身の作品が生み出され、半世紀以上たっても輝きを失うことはない、、、DVDを観終わってふとそんなことを思ったしだいです。
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- 発売日: 2014
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いにしえの記憶第2章(その15) [いにしえの記憶]
過ぎ去った日々に徐々に埋もれていく、遠い日のいにしえの記憶
写真のTシャツは、1983年、よみうりランドオープンシアターEASTで開催されたライブ・アンダー・ザ・スカイの会場で購入したものです。
先日、大阪で乾燥機から取り出して畳んでいると、肩の部分に数か所小さな穴が開いている気づき、残念ですが、引退させることにしました。
このTシャツから想い起こされる、きわめて個人的な、いにしえの記憶です。
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ライブ・アンダー・ザ・スカイは、1977年夏の田園コロシアムでの開催で始まったJAZZフェスティバルです。毎年、内外のトップアーティストが出演しました。1977年、1979年のV.S.O.P. The Quintetなど、伝説となった演奏も多いです。
1983年のライブ・アンダー・ザ・スカイは冠スポンサーが日本専売公社(現JT)で、「Select LIVE UNDER THE SKY '83」と銘打って、前年に発売された「マイルドセブン・セレクト」の大々的なプロモーションも兼ねていました。
コンパニオンが入場者全員に「マイルドセブン・セレクト」を配布していました。当時の私はヘビースモーカーだったので、煙草が只で貰えたことが、無性に嬉しかったです。まだまだ、喫煙者には寛容な時代でした。
Tシャツには、1983年のライブ・アンダー・ザ・スカイに出演した、アーティスト、グループの名前がプリントされています。WEATHER REPORT、CRUSADERS、CHICK COREA TRIO、SONNY ROLLINS SPECIAL QUARTET、錚々たる名前が見て取れます。
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1983年のライブ・アンダー・ザ・スカイ、猛烈なJAZZファンで、自らもJAZZピアノのレッスンを受けていた、ガールフレンドと一緒にSONNY ROLLINS、CHICK COREA のステージを観に行きました。当時の私は10代の頃に聴いていたROCK/POPSを封印して、ひと月に30タイトル以上のJAZZアルバムを購入する位に、JAZZにのめり込んでいたので、二人は水を得た魚のようにJAZZについて語り合う仲でした。
私はCHICK COREA、MIROSLAV VITOUŠ、ROY HAYNESの "TRIO MUSIC"の演奏がお目当てでしたが、彼女はSONNY ROLLINSの演奏がお目当てでした。
SONNY ROLLINSのテナーは底抜けに明るく、陽気で、彼女はノリノリで楽しんでいましたが、そもそも陽性の音楽があまり肌に合わない私にとって、初めてライブで聴いたSONNY ROLLINSの演奏には、あまり感銘は受けませんでした。
"TRIO MUSIC"のクールで知的、少し理屈っぽい演奏は私にとっては素晴らしいものでしたが、逆に彼女のお気に召すものではなかったようです。
コンサートが終わり、京王線の駅に向かって歩いている間もずーっと、彼女はSONNY ROLLINSの音楽は陽気で楽しい、最高!、大好き!”と喋りつづけていました。このあと、下北沢のバーで一緒にお酒を飲んで、JAZZ談義(?)に花を咲かせました。とても蒸し暑い日だったことを憶えています。
彼女とはJAZZのライブやコンサート、JAZZ喫茶に二人で出向いて音楽に浸ったり、学生時代、共に硬式テニスをやっていたので、二人でテニスを楽しみました。コートの上の彼女は、とてもタフで負けず嫌い、非常に攻撃的でした。
彼女はスレンダーな凛とした佇まいの美人でしたが、何故か一緒に居ても、女性であることを私に意識させることは少なかったです。私が肉感的な女性が好みなのが、その理由だったのかもしれません。彼女は自分の身体に女性らしい豊饒さが不足していることを、とても気にしていて、会話の端々に、そのことが彼女のコンプレックスとなっていることを、私は感じとることができました。
そして、2年以上、音楽とテニスで付き合いがあったのですが、どちらからともなく疎遠となり、早30年以上が経ちました。
彼女には私が「鉄」だとカミングアウトしていたのですが、ライブ・アンダー・ザ・スカイの帰り道、”「SLやまぐち号」に乗りに行こうよ!”と彼女は私に言いました。しかし、「SLやまぐち号」に二人で乗ることはありませんでした。
その後の彼女の消息は知りません。彼女の消息を確かめることもできたのですが、確かめたことはありません。。。
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次にライブ・アンダー・ザ・スカイに行ったのは5年後で、MARLON JORDAN QUINTET、SUN RA ARKESTRA、MILES DAVIS GROUPのステージを観ました。この夜に観たMILES DAVIS GROUPのステージは、私が人生を通じて観た全てのコンサートの中で、ベストのコンサートの1つとして、鮮明に脳裏に焼きついています。
この時、一緒に行ったJAZZには無関心な女性も、やはり肉感的ではありませんでしたが、程なくして私は、この女性と結婚しました。
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数々の伝説、ライブ名盤を残した、ライブ・アンダー・ザ・スカイは、残念ながら1992年が最後の開催となりました。
よみうりランドオープンシアターEASTも、2013年に閉鎖されました。
そして私は、このTシャツを買ってから4年後、音楽=JAZZという、私が持っていた固定観念を捨て去り、日本の歌以外のあらゆるジャンルの音楽に心を開いて、積極的に接するようになりました。
さらに、それから10年後、私は、子供の頃に罹ることが多い高熱が出る感染症で生死の境を彷徨い、それをきっかけにヘビースモーカーからノースモーカーに転じました。
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もしも、パラレルワールドが存在したら・・・・・
パラレルワールドの自分は、ひょっとしたら、別の人生を歩んでいるのかも知れませんね。
34年前に買ったTシャツを前にして、とりとめもなく、パラレルワールドの中の自分に思いをはせた次第でした。
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写真のTシャツは、1983年、よみうりランドオープンシアターEASTで開催されたライブ・アンダー・ザ・スカイの会場で購入したものです。
先日、大阪で乾燥機から取り出して畳んでいると、肩の部分に数か所小さな穴が開いている気づき、残念ですが、引退させることにしました。
このTシャツから想い起こされる、きわめて個人的な、いにしえの記憶です。
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ライブ・アンダー・ザ・スカイは、1977年夏の田園コロシアムでの開催で始まったJAZZフェスティバルです。毎年、内外のトップアーティストが出演しました。1977年、1979年のV.S.O.P. The Quintetなど、伝説となった演奏も多いです。
1983年のライブ・アンダー・ザ・スカイは冠スポンサーが日本専売公社(現JT)で、「Select LIVE UNDER THE SKY '83」と銘打って、前年に発売された「マイルドセブン・セレクト」の大々的なプロモーションも兼ねていました。
コンパニオンが入場者全員に「マイルドセブン・セレクト」を配布していました。当時の私はヘビースモーカーだったので、煙草が只で貰えたことが、無性に嬉しかったです。まだまだ、喫煙者には寛容な時代でした。
Tシャツには、1983年のライブ・アンダー・ザ・スカイに出演した、アーティスト、グループの名前がプリントされています。WEATHER REPORT、CRUSADERS、CHICK COREA TRIO、SONNY ROLLINS SPECIAL QUARTET、錚々たる名前が見て取れます。
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1983年のライブ・アンダー・ザ・スカイ、猛烈なJAZZファンで、自らもJAZZピアノのレッスンを受けていた、ガールフレンドと一緒にSONNY ROLLINS、CHICK COREA のステージを観に行きました。当時の私は10代の頃に聴いていたROCK/POPSを封印して、ひと月に30タイトル以上のJAZZアルバムを購入する位に、JAZZにのめり込んでいたので、二人は水を得た魚のようにJAZZについて語り合う仲でした。
私はCHICK COREA、MIROSLAV VITOUŠ、ROY HAYNESの "TRIO MUSIC"の演奏がお目当てでしたが、彼女はSONNY ROLLINSの演奏がお目当てでした。
SONNY ROLLINSのテナーは底抜けに明るく、陽気で、彼女はノリノリで楽しんでいましたが、そもそも陽性の音楽があまり肌に合わない私にとって、初めてライブで聴いたSONNY ROLLINSの演奏には、あまり感銘は受けませんでした。
"TRIO MUSIC"のクールで知的、少し理屈っぽい演奏は私にとっては素晴らしいものでしたが、逆に彼女のお気に召すものではなかったようです。
コンサートが終わり、京王線の駅に向かって歩いている間もずーっと、彼女はSONNY ROLLINSの音楽は陽気で楽しい、最高!、大好き!”と喋りつづけていました。このあと、下北沢のバーで一緒にお酒を飲んで、JAZZ談義(?)に花を咲かせました。とても蒸し暑い日だったことを憶えています。
彼女とはJAZZのライブやコンサート、JAZZ喫茶に二人で出向いて音楽に浸ったり、学生時代、共に硬式テニスをやっていたので、二人でテニスを楽しみました。コートの上の彼女は、とてもタフで負けず嫌い、非常に攻撃的でした。
彼女はスレンダーな凛とした佇まいの美人でしたが、何故か一緒に居ても、女性であることを私に意識させることは少なかったです。私が肉感的な女性が好みなのが、その理由だったのかもしれません。彼女は自分の身体に女性らしい豊饒さが不足していることを、とても気にしていて、会話の端々に、そのことが彼女のコンプレックスとなっていることを、私は感じとることができました。
そして、2年以上、音楽とテニスで付き合いがあったのですが、どちらからともなく疎遠となり、早30年以上が経ちました。
彼女には私が「鉄」だとカミングアウトしていたのですが、ライブ・アンダー・ザ・スカイの帰り道、”「SLやまぐち号」に乗りに行こうよ!”と彼女は私に言いました。しかし、「SLやまぐち号」に二人で乗ることはありませんでした。
その後の彼女の消息は知りません。彼女の消息を確かめることもできたのですが、確かめたことはありません。。。
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次にライブ・アンダー・ザ・スカイに行ったのは5年後で、MARLON JORDAN QUINTET、SUN RA ARKESTRA、MILES DAVIS GROUPのステージを観ました。この夜に観たMILES DAVIS GROUPのステージは、私が人生を通じて観た全てのコンサートの中で、ベストのコンサートの1つとして、鮮明に脳裏に焼きついています。
この時、一緒に行ったJAZZには無関心な女性も、やはり肉感的ではありませんでしたが、程なくして私は、この女性と結婚しました。
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数々の伝説、ライブ名盤を残した、ライブ・アンダー・ザ・スカイは、残念ながら1992年が最後の開催となりました。
よみうりランドオープンシアターEASTも、2013年に閉鎖されました。
そして私は、このTシャツを買ってから4年後、音楽=JAZZという、私が持っていた固定観念を捨て去り、日本の歌以外のあらゆるジャンルの音楽に心を開いて、積極的に接するようになりました。
さらに、それから10年後、私は、子供の頃に罹ることが多い高熱が出る感染症で生死の境を彷徨い、それをきっかけにヘビースモーカーからノースモーカーに転じました。
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もしも、パラレルワールドが存在したら・・・・・
パラレルワールドの自分は、ひょっとしたら、別の人生を歩んでいるのかも知れませんね。
34年前に買ったTシャツを前にして、とりとめもなく、パラレルワールドの中の自分に思いをはせた次第でした。
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タグ:ライブ・アンダー・ザ・スカイ よみうりランドオープンシアターEAST Tシャツ 田園コロシアム JAZZフェスティバル V.S.O.P. the Quintet 日本専売公社 Select Live Under Sky '83 マイルドセブン・セレクト Crusaders Chick Corea Sonny Rollins Rock/Pops jazz Miroslav Vitouš ROY HAYNES TRIO MUSIC" SLやまぐち号 鉄 MARLON JORDAN SUN RA ARKESTRA Miles Davis パラレルワールド いにしえの記憶 Weather Report
いにしえの記憶第2章(その14) [いにしえの記憶]
過ぎ去った日々に徐々に埋もれていく、遠い日のいにしえの記憶
いにしえを知るモータースポーツファンは、今日、耐久王と呼ばれるポルシェでさえも、ルマン24時間レースまでの初勝利までの道のりが、とても長く、険しいものであったかを知っていると思います。
長年ルマンに挑戦を続けてきたポルシェ、そのポルシェが初優勝に大手をかけた1969年のルマン24時間レース、ジョン・ワイヤー・オートモーティブのガルフカラーのフォードGT40とポルシェワークスのポルシェ908ロングテールクーペが歴史に残るデッドヒートを繰り広げ、レースはドラマチックな結末を迎えます。
ポルシェ優勢で終盤を迎えたのですが、その結末は24時間のゴール時点で100数十メートルという、ルマン史上もっとも僅差でフォードGT40が先にゴールラインを横切り、ポルシェの初優勝の夢は潰えました。1969年、年間のマニュファクチャラース・チャンピオンはポルシェに輝きはしましたが。。。
映画「栄光のルマン」の撮影の舞台ともなった、翌1970年のルマン24時間レース。新たにポルシェワークスとなったジョン・ワイヤー・オートモーティブ のガルフカラーのポルシェ917とスクーデリア・フェラーリの真紅のフェラーリ512Sが激突、両ワークスの消耗戦の末、優勝はポルシェのセミワークスであるザルツブルク・レーシングのポルシェ917。ポルシェの頭上に初のルマン制覇の栄冠が輝きました。
1971年のルマン24時間レースもポルシェ917が優勝して2連勝を達成しました。しかし、またしても優勝車はポルシェワークスのジョン・ワイヤー・オートモーティブ のガルフカラーのポルシェ917ではなく、プライベーターのマルティニ・レーシングのマルティニカラーのポルシェ917でした。
翌、1972年からは最強のグループ5レーシングカーであるポルシェ917排除とも言えるレギュレーション変更がなされ、ルマン24時間レースの最前線からポルシェは一旦、退きます。
そして1970年代後半から、グループ5、グループ6、グループCの各カテゴリのレーシングカーによる度重なるルマン制覇で、表彰台の中央はポルシェの指定席となり、ポルシェはルマン最強、耐久王の名を欲しいままにします。
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2014年にトップカテゴリのLMP1でWECに復帰して、ルマン参戦を再開したポルシェ。耐久王ポルシェは2015年と2016年、2連勝を達成しました。
2016年のルマン24時間レース、残り3分までトップを走ったのはトヨタ。当たり前ですが、耐久レースは、どんなに速く走ったとしても、ゴールまで走り切って完走し、チェッカーを受けなければ、何の意味も価値もありません。
逆に最後の3分間をきっちり走って24時間のトップチェッカーを受けたポルシェ、耐久王ポルシェの真の強さを、まざまざと見せつけたような気がしました。
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今日のポルシェの強さは、ルマン初勝利までの長く、険しい道のりの克服したことに加え、初勝利のあとも幾度となくルマンで苦杯を喫した経験が、造り上げたものなのかもしれません。
1988年のルマン24時間レースでは、ルマン最強を名を欲しいままにしてきたポルシェワークスのシェルカラーのポルシェ962Cが、ジャガーワークスであるトム・ウォーキンショー・レーシングのシルクカットカラーのジャガーXJR-9にまさかの敗退、ポルシェワークスは一旦はルマンから遠ざかることになります。
このような苦杯を喫したこと、そして、それを乗り越えてきたことが、今日のポルシェの強さの源なのかもしれません。
何故か、ポルシェとトヨタの残り3分の差は永久に縮まることはない、との確信に近いものを感じてしまった、2016年のルマン24時間レースの結末でした。
いやーぁ、いにしえからレースはドラマチックです。。。
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いにしえの記憶第2章(その13) [いにしえの記憶]
過ぎ去った日々に徐々に埋もれていく、遠い日のいにしえの記憶
私は4年生の2学期まで品川区立の小学校に通っていました。
その小学校では、体育館で映写機を使って映画を上映して鑑賞する催しが、年に何回もありました。
体育館で上映される映画は実写、アニメと様々でしたが、ほとんど記憶に残るような作品はなかったです。
しかし、その中で唯一、鮮明に記憶に残る作品がありました。それがアニメ映画「白蛇伝」です。観たのは2年生くらいの時だったと思います。
私の記憶に鮮明に残った点は、映像の美しさ、白蛇の精の化身の娘の美しさ、娘に恋した青年が崖から転落して命を落とすという物語の悲しさでした。
そして、今から30年以上まえにテレビで「白蛇伝」が放映されたのを、たまたま観ることができました。小学生の時に初めて観てから20年位経ていましたが記憶に違うことのない、とても美しく胸にしみる映画で小学生の時の感動がよみがえった記憶があります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以前から、「白蛇伝」を再び観てみたいと思っていたのですが、先日、ネットショップで新品のDVDが発売されているのを知り、早速購入して昨日観ました。
私は、この映画のラストは、娘の本性を知った僧侶に白蛇の精の娘が倒されると記憶していたのですが、それは全くの記憶違いで、青年の命と引き換えに妖力を失い人間になった娘と娘によって生き返った青年が結ばれるというハッピーエンドでした。ハッピーエンドはそれはそれで嬉しいのですが、何か拍子抜けでした(私の勝手な記憶違いのせいではありますが・・・・・)。もちろん、とても美しく、情緒に溢れた素晴らしい映画であることには違いありませんが。
私はどうやら「白蛇伝」と別のアニメ映画のラストシーンを混同していたようです。
私の勘違いのラストシーンは、戦いの最後に骸骨に姿を変えた妖怪が、投げられた剣に貫かれ岩を背にして崩れ落ちるというものです。このラストシーンを持つアニメ映画も小学校の体育館で観たものと思われ、昭和30年代の作品となるはずです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昨日、「白蛇伝」のDVDを観てから、今度はこのラストシーンのアニメ映画がとても気になってしまい、ネットサーフィンを繰り返して、つい先ほど、そのラストシーンのアニメ映画を探し出しました。
その作品は、同じ東映が「白蛇伝」に続いて制作した「少年猿飛佐助」というアニメ映画でした。どちらも1959年の作品です。
「白蛇伝」の僧侶と白蛇の精の戦いと、「少年猿飛佐助」の猿飛と夜叉姫の戦いが私の記憶の中で混線したようです。
うーむ。。。記憶していた「白蛇伝」のラストシーンで、白蛇の精が倒された時に、蛇ではなく人間の骸骨だったのは何故か(?)という長年にわたる疑問が、単に私の勘違いによるものだったことが解り、やっと胸の中がスッキリとなった次第です。
これで今日はぐっすりと眠れそうです。。。そして、夢の中に美しい白蛇の精が出てきてくれると嬉しいのですが・・・・・
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いにしえの記憶第2章(その12) [いにしえの記憶]
過ぎ去った日々に徐々に埋もれていく、遠い日のいにしえの記憶
2週間ほど前、ネットサーフィンしていると、いにしえの米国テレビドラマ「インベーダー」の日本語吹替版のDVDが発売されていることを知り、早速、「インベーダー1st Season DVD-BOX」を購入しました。
加藤和夫さんのナレーションによる「遠く暗い、宇宙の奥から地球を目指してやってくるもの、それを今、私たちはインベーダーと呼ぼう・・・」で始まる印象的なオープニング、主人公デビッド・ビンセント(ロイ・シネス)の役柄のイメージによくマッチした露口茂さんの吹替など、1967年の初回放映時、私が小学校5年の時に夢中で観た番組そのものの内容です。
”1st Season DVD-BOX”には17話が収録されていますが、観ている途中で”2nd Season DVD-BOX1”も欲しくなり、続けて購入しました。5月27日には”2nd Season DVD-BOX2”が発売予定、3つのボックスで全43話が発売されることになりますが、もちろん、”2nd Season DVD-BOX2”も購入することになると思います。
「インベーダー」全43話のうちで、初回放送時に見逃したのが2,3話ありましたが、その後の再放送で全話観ています。しかし、初回放送時そのままのDVDでじっくりと観ることができるのは、往年のファンには嬉しい限りで、涙がちょちょぎれそう(今や死語?)です。
名作「逃亡者」を制作したクイン・マーチン・プロダクションによるこのドラマ、主人公ビンセントが宇宙人に追われつつも、宇宙人が地球に来ている証拠を求めて、孤独な旅を続ける姿は、主人公キンブルがジェラード警部に追われつつも、片腕の男を捜して、孤独な旅を続ける「逃亡者」と重なるものがあります
宇宙人による地球侵略というテーマながら、派手なSFシーンなどを排して、日常生活に忍び寄ってくるインベーダーの恐怖を現実的にありそうなこととして、淡々と極めてシリアスに描いていることが、このドラマの魅力です。また、アメリカの様々な地域の文化や景観、1960年代の日本に比べて、はるかに豊かなアメリカの日常生活が垣間見れることも、このドラマの魅力の1つとなっていました。
今、”2nd Season DVD-BOX1”の途中まで観ましたが、出演しているゲスト俳優陣も、いにしえのテレビドラマ好きには嬉しいです。
ダイアン・ベイカー、スザンヌ・プレシェット、J・D・キャノン、ピーター・グレイブス、ジョセフ・カンパネラなどなど、この時代のテレビドラマを飾った名優たちが、毎回、華をそえています。
「インベーダー」を観ながら、1960年代のテレビドラマが現代のテレビドラマよりも密度が高くて見応えがあると、つくづく考えてしまうのは、いにしえを懐かしむことが多くなった、私の歳のせいかもしれません。
・・・もしも、タイムトラベルができたら、1960年代に戻って、当時の文化、芸術、音楽、娯楽、風俗に大人になった自分として接してみたいです。
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いにしえの記憶第2章(その11) [いにしえの記憶]
過ぎ去った日々に徐々に埋もれていく、遠い日のいにしえの記憶
いにしえのブラウン管を彩った女優についての記憶。その第7弾です。
今回のいにしえの記憶は、比較的最近の記憶となります。
私は一時期、韓流時代劇ドラマにハマっていました。ハマったきっかけは、「宮廷女官チャングムの誓い」でした。
脚本の面白さ、そしてチャングムを演じたイ・ヨンエさんの魅力など見所満載で、今まで何回も繰り返し観ましたが、全く飽きることがない、本当に素晴らしいTVドラマです。
そして、チャングムと同じくらい私が熱心に観た韓流時代劇ドラマが「王と私」です。知られざる内侍の生きざまを描いたこのドラマ、チャングムとは違う意味で大いに見ごたえがありました。
主役チョソンを演じたオ・マンソクさんのいかにも去勢された男性っぽい演技もさることながら、内侍府長チョ・チギョムを演じた名優チョン・グァンリョルさんの、いぶし銀の演技が印象に残っています。
そして何といってもこのドラマに私が惹きつけられたのは、稀代の不倫女として後世に語られるオウドンを演じた、キム・サランさんの美しさです。伽耶琴を奏で、詩を詠み、知性と美しさを兼ね備えた女性として描かれています。
韓国の女優さんには、驚くほどの美形が多いのですが、キム・サランさんの美しさは、その中でも群を抜いていると思います。
もちろん、ドラマの中での話ですが、こんな美女だったらソンジョン王が王族の奥方であることを承知でオウドンと関係を持ってしまうのは、納得がいく次第です。まさに国が傾く美しさです。。
私はこのドラマをはじめて観たときには、実際のオウドンの行く末を知らなかったので、大罪人として処刑されるオウドンの末路には心が痛みました。
オウドンが処刑されてキム・サランさんが出演しなくなったあとの「王と私」は、ドラマの彩りが失われた感じがして、私にはちょっと味気のないものとなってしまったのも事実です。
主役チョソンをはじめ、準主役の殆ど全員が最終回待たずに死んでしまうという、何とも言えない結末のドラマでした。意表を突かれたストーリー展開ではありましたが、ずっしりと見応えのあるドラマです。
キム・サランさんのような美貌だったら、たとえ歴史に残る稀代の不倫女でも、私的にはノープロブレム、いつでもウェルカムなのですが(かなり意味不明です・・)、そんな妄想(?)を抱きつつ、この名作ドラマでオウドンを演じたキム・サランさんに想いを馳せたいと思います。
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いにしえの記憶第2章(その10) [いにしえの記憶]
過ぎ去った日々に徐々に埋もれていく、遠い日のいにしえの記憶
いにしえのブラウン管を彩った女優についての記憶。その第6弾です。
私が高校入学の頃から、中野良子さんの熱烈なファンになりました。
中野良子さんの印象がちょっとだけ残っているテレビドラマは、1972年にフジテレビで放映された「光る海」です。共演は沖雅也さん、島田陽子さんでした。
だだ、このドラマ、セリフなどにかなりきわどい性的表現があり、高校生の私にとっては、両親、家族と一緒にテレビを見るのが気恥ずかしく、あまり見てはいません。本当は中野良子さんを見たかったのですが・・・・・
中野良子さんの魅力が私に焼き付くことになったテレビドラマの1つが、1973年に日本テレビで放映された「さよなら・今日は」です。
下落合に暮らす、裕福だが複雑な問題を抱えた一家を描いたこのドラマは、私が今までの人生の中で、日本のテレビドラマとして最も強く印象に残る作品の中の1つです。硬質の素晴らしいドラマでした。
中野良子さんは、このドラマで浅丘ルリ子さん、栗田ひろみさんと三姉妹を演じています。中野良子さんの研ぎ澄まされたような美しさと声がとても魅力的でした。今も強く印象に残っています。
そして、中野良子さんの魅力が決定的に私に焼き付くことになったテレビドラマが、同じ1973年のNHK大河ドラマ「国盗り物語」です。
高橋英樹さんが織田信長を好演しましたが、このドラマの見所の1つは、明智光秀を演じた近藤正臣さんの快演(怪演)でした。「柔道一直線」の足ピアノで一世を風靡した近藤正臣さんが、明智光秀の心の葛藤、信長への憎しみが、やがて信長への殺意に変わっていくさまを見事に演じ、その演技は今でも私の心に強く刻まれています。
中野良子さんは明智光秀の正室である、お槙を演じています。健気にも夫、光秀のことを気遣い、必死に支えようとするさまは、すばらしい演技で、結末が悲劇と解っているだけに、余計、真に迫るものがありました。
この時代の衣装をまとった中野良子さんの繊細な美しさ、近藤正臣さんとの光秀夫婦の迫真の演技で、「国盗り物語」は忘れられないテレビドラマとなり、そして中野良子さんは、文字通り私が最も好きな女優さんとなりました。
この頃、私は高校2年でした。当時、クラスメートの男子が集まって、好きな女性芸能人の話をしたことがありました。クラスメートの中で人気ダントツ1位が大原麗子さん、続く2位が中野良子さんでした。当時のアイドル歌手、山口百恵さん、桜田淳子さん、麻丘めぐみさん、浅田美代子さんなどをあげたクラスメートが殆どいなかったことが、今になって考えると、とても不思議に思えます。きっと、皆、綺麗なお姉さまが好きだったのだと思います。
時が経って1990年、中野良子さんが、膝を抱えてグラス片手に首をかしげてセクシーな美しい声で、「女房酔わせてどうするつもり?」のニッカウヰスキーのテレビCMが流れました。目を見張るような、素晴らしいCMでした。中野良子さんのような女房に、そんなこと言われたら、どうするかは、火を見るよりも明らかですね。。。このテレビCMは後年、石田ゆり子さんで復刻されましたが、私は石田ゆり子さんでは、臨戦態勢にはほど遠いです。
因みに「国盗り物語」は総集編のテープは残っていますが、「さよなら・今日は」のテープは残っていないのでしょうか?
日本テレビさん、もしテープが残っているのなら、是非この素晴らしいドラマの再放送あるいはDVD化をお願いします!。そして、その映像を観て、中野良子さんの魅力に浸ってみたいと思います。
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大河ドラマ 国盗り物語 総集編 全2枚セット【NHKスクエア限定商品】
- 出版社/メーカー: NHKエンタープライズ
- 発売日: 2014
- メディア: DVD