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10月の悪夢と喫煙の過去、麻疹の記憶 [つれづれ日記]

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以前、ブログに9月14日に人間ドックを受けたあと、高崎線の撮影に行ったという記事を記しました。

そして・・・

確か10月1日(金)の夕方だったと思いますが、自宅ポストに人間ドックの結果が投函されていました。投函されていた封筒は昨年より少し厚みがあり、いやな予感がしました。直ぐに封筒の封を切って中身を見ました。。。

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結果報告書の表面の内容は去年と同じで、特に命の心配をするような結果の記載はありませんでした。そして、結果報告書裏面の内容ですが、胸部レントゲン撮影で左上肺野結節影の記載がありました。封筒が厚かったわけは、精密検査の案内、他医療機関で精密検査を受ける場合の紹介状が同封されていたからです。

結節影とは何か直ぐにネットで調べたのですが、肺がんの可能性もあることが解りました。

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私が初めて煙草を吸ったのは15歳の時です。中学校の友人2人と3人で東京モーターショーを見に行った帰り、武蔵小金井駅前、小金井街道沿いにあった「エリカ」という喫茶店で初めて煙草を吸いました。

友人2人とも特に不良、問題生徒ではなかったのですが、2人は武蔵小金井「西友」裏のタバコ屋で煙草を買い、当たり前のように煙草を吸っていました。

その時に友人から煙草を勧められたのが、私がスモーカーになるきっかけでした。

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高校に入った頃から煙草が手放せなくなりました。私が通っていた都立高校では男子の50%程度、女子の5%程度が喫煙していたと思います。昼休み、放課後など校舎の屋上で皆、喫煙していました。高校時代は「峰」を吸っていました。

高校を卒業して私は2回大学に入学、1回卒業しましたが、2回目の大学時代の私のニックネームは「人間蒸気機関車」でした。私が「鉄」だからこのニックネームとなった訳ではなく、「芝浦鉄親父」は蒸気機関車みたいにいつも煙を吐いていて、煙って顔が見えないことが、そのニックネームが付いた理由でした。

大学時代は、セブンスターを2~3箱/日程度吸っていたと思います。

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私は2回目の大学を無事に卒業して、電機メーカーのシステム開発部門で働き始めました。

当時は時短、残業規制などお構いなしで、8時30分から23時15分まで当たり前で働いていました。23時45分を過ぎると帰宅できなくなるため、会社に泊まるか、徹夜で仕事をするかのどちらかでした。因みに当時、残業手当は残業時間分全額支給されました。

仕事している時間が長くなると煙草の本数は比例して増えていき、5~6箱/日吸っていました。当時発売されたCABINマイルドを吸ったこともありましたが、軽くて物足りなくなり、セブンスターに戻りました。

その後、結婚を契機に煙草をやめようと思ったのですが、やめることができませんでした。しかし、本数はセーブして、20~30本/日吸う程度に落ち着き(?)ました。

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私が40歳の春、麻疹に感染、発症しました。息子が幼稚園に入園した年で、幼稚園の入園式に出席した際に感染したようです。私と同時期に多数の園児も麻疹に感染していたことをあとで知りました。私はそれまでに麻疹に感染した記憶はありませんでした。

大人になってからの麻疹は本当に怖ろしいです。

嫁さんは私の発熱、顔と体の発疹などの症状から麻疹と判断して、事前に病院に電話したうえで、私を病院に連れていきました。前もって麻疹と病院に連絡してあるので、他の患者と一切接することなく受付、診察、会計ができました。

嫁さんは診察した医師に麻疹だと思うと告げたのですが、医師はろくに診察もせずに開口一番、「この歳で麻疹に罹っていない人などいない、溶連菌感染症ですよ」と言いました。そして、薬を処方してくれました。それが週末金曜日のことでした。

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ところが、処方された薬は全く効かず、翌日翌々日の土曜日日曜日で症状が急激に悪化しました。

水もヨーグルトのような食事も体が受け付けなくなり(口にすると嘔吐か下痢)、布団が濡れ雑巾のように絞ることができるほどの発汗、信じられないくらいの高熱(40度くらい)で全身がピンク色になり、自力で起き上がることもできなくなり、ついには「早く楽になってしまえよ!」と、あの世(?)からの囁き、幻聴が聴こえるようにまでなりました。

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月曜日に嫁さんが私を病院に連れて行くと診察した医師は金曜日の医師と同じでした。その医師は開口一番、「奥さんの診立てのほうが正しかった・・・」と信じられない言葉を平然と口にして、看護婦に点滴の指示をしました。

処置室で看護婦が点滴の針を私の右手の甲に刺すとき、「大人の麻疹は命取りですからねぇ・・・」と私に微笑みながら囁きかけました。

医師と看護婦のブラックジョーク連発で、もうこれで自分の人生は終わるかも知れないと思いました。

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結局、隔離病棟がないという理由でその病院には入院できず、医師は、「どうせ入院しても点滴を打つだけだから、毎日、奥さんが旦那さんを連れてきてください」と自宅療養となりました。因みに、嫁さんは過去に麻疹に感染していること、息子はワクチン接種していることで、たとえ感染しても軽症で済むので心配はないとのことでした。

熱は程なくして下がりましたが、発疹の跡が残っている間に外気に触れると発疹の跡が消えなくなり残ること、極端に体力を消耗しているので他の感染症にかかりやすく肺炎で命を落とす可能性があることから、長期間、自宅からは出ないように医師から告げられ、その年のゴールデンウィーク明けまで約1ヵ月間会社を休みました。

この1ヵ月間で、私は何の苦もなく(?)、煙草と縁を切ることができたわけです。

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それから24年の月日が経ちましたか、超ベビースモーカーだった私は、潜在的に肺がんになるかも知れないという恐怖心を常に持ち続けています。

今でも数ヵ月に1度は、喫煙する夢を見ます。

無意識に、目の前に置かれた煙草に手を伸ばし、1本取り出してライターで火をつけて、煙を深く吸い込みます。美味いと感じているとき、煙いと感じているとき、どちらのパターンもあります。

夢の中の私は、「煙草はやめたはずなのに、何で吸っているんだ?」と自問して煙草の火を揉み消し、「肺がんは怖い、煙草は二度と吸うまい!」と反省するところで夢が終わります。

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悲観論者の私は人間ドックの結果を見てから、日に日に気分が落ち込んでいき、体調が悪化していきました。

趣味が全く楽しめなくなり、Blogからも遠ざかりました。食欲はなくなり、左胸と左背中に痛みを感じ、咳まで出るようになりました。

何事にも早く白黒決着を着けたい私は、最短の10月11日に呼吸器腫瘍内科で診察、CT検査を受け、10月18日に検査結果を聞くことになりました。

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10月18日に医師から伝えられた検査結果は、「安心してください、何もありません」でした。

その言葉を聞いて、大いにホッとしたことは言うまでもありません。しかし、気分の落ち込みと体調は直ぐには回復せず、毎日少しずつ回復していきました。胸と背中の痛みも徐々に消えました。

そして、やっとBlogと接する気力が湧くところまで復活して、今、この記事を記しています。

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私はこれからも煙草を口にすることは、絶対にないと思います。

超ヘビースモーカーだった私は、煙草をやめて24年経った今でも肺がんの恐怖に付き纏われています。そして、これからも付き纏われ続くと思います。

50年前に、武蔵小金井駅前の「エリカ」で煙草を吸わなかったら、こんな恐怖に付き纏われることはなかったのかも知れません。

やっと10月の悪夢からは覚めることができました。そして、これからも、毎年の人間ドック受診は欠かさないよう心掛けたいと思う次第です。。。


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